東京都町田市木曽西四丁目7-33
地図
宗 旨
天台寺門宗
本 山
滋賀県大津市 総本山園城寺(三井寺)
本 尊
聖観世音菩薩
沿 革
木曽の観音様として古くから親しまれてきました覺圓坊(かくえんぼう)は、吉祥山住善寺達蔵院と号し、もと近江国園城寺621坊中の一寺で康平6年(1063)園城寺第31代長吏覺圓僧正が同寺中の金堂(現在国宝)裏に開基されました。聖観世音菩薩(座像三尺)は、僧行基六十にしてこれを刻むと伝えられています。園城寺は再三の兵火にあいましたが、観音像は鈴鹿山麓に移されその後義仲庵に安置されました。武州多摩郡木曽が義仲の縁地であり、正平6年/観応2年(1351)木曽の傳燈阿闍梨法印源性により当地に移され、多摩郡の霞頭となりました。
箭簳八幡宮(旧木曽八幡宮)旧別当寺
武相観音霊場第三十三番結願札所(1759年)
尚、昭和50年代初めに園城寺末寺新潟県南魚沼市五郎丸より不動明王が移され安置されました。
武相第三十三番 木曽観音
吉祥山 覺圓坊(かくえんぼう)
学びの館 予約状況
覚円大僧正
長元4年(1031年)~承徳2年4月16日(1098年5月19日)平安時代後期の天台宗の僧、摂政関白太政大臣 藤原頼通の子、宇治僧正とも称される。
平安時代後期の日本では「末法思想」が広く信じられていました。ときの関白藤原頼通は園城寺の「明尊」に帰依し、既に21歳であった第3子「覚円」を出家させました。頼通は道長の別業を仏寺に改め「平等院」とし、翌1053年には初代執印「明尊」と「覚円」により、「阿弥陀堂(鳳凰堂)」を落慶させました。
1052年 園城寺明尊のもとで出家、平等院創立供養
1053年 平等院鳳凰堂落慶供養
1063年 園城寺第31代長吏、覚円坊開基、法成寺権別当
1064年 平等院第2代執印 (一部資料に1067年と誤記がありました。訂正いたします)
1077年 延暦寺第34代天台座主、法勝寺初代別当
1095年 白河南殿建立、覚円の房舎を院御所に改めたもの
1096年 牛車宣旨を賜る
1098年 入寂
平安時代後期の京都では、皇族・貴族による大規模寺院の建設が相次いでいました。道長は寛仁4年(1020年)無量寿院(のちの法成寺)を建立、頼通は永承8年(1053年)平等院鳳凰堂を建立、白河天皇勅願の法勝寺を筆頭に「六勝寺」が今の京都市左京区岡崎あたりに相次いで建立されました。これら大伽藍の多くは現存せず、平等院鳳凰堂と覚円坊のみが今に伝えられています。
法成寺:平等院の範となった寺院、御所近くの鴨沂高校に石碑があります
法勝寺:復元模型が京都市平安創生館(京都アスニー)に展示されています
また、京都市動物園内に八角九重塔の遺構が残されています
白河南殿:白河上皇の院御所、琵琶湖疎水沿いに石碑があります
宇治拾遺物語 巻第四・八(60)「進命婦清水寺詣の事」より
・・・進命婦は、宇治殿・藤原頼通の寵愛を受け、はたして京極大殿・藤原師実、四条宮・藤原寛子、三井寺の覚円座主をお生みになったという。
覚円坊
木曽観音堂(覚円坊)の伝承
町田市木曽観音は、吉祥山住善寺覚円坊と称し、元近江国三井寺(園城寺)六百二十一坊中の一寺で、康平六年(1063年)六月覚円僧正が同寺金堂裏に開基した。然るに永治元年(1141年)延暦寺山徒の為、三井寺炎上のおり、法禪院大信房遁れて其本尊聖観音像を鈴鹿山北麓、飯道に移したが、其後210年後の南北朝争乱時代、即ち観応二年(1351年)僧義然、又近江国粟津中之里木曽義仲の墓地にある義仲庵に移して安置し、のちまもなく、武州多摩郡木曽が義仲の縁地であるとして木曽の伝燈阿闍梨石川氏京都聖護院に参向のおり、現地に移したもののこれが現在の木曽観音堂である。
注)飯道は現在の滋賀県甲賀市、飯道神社が残っていますが、当時は山岳信仰の拠点飯道寺がありました。また、源義仲の右筆として知られる覚明が、2歳であった駒王丸を飯道の達蔵坊(覚円坊)にかくまったとする史料もみられます。
覚円坊の歴史をたずねて 飯道神社を追加しました
覚円の僧房は次の三坊が知られています。
1、園城寺の房舎
覚円が園城寺の長吏となった1063年、園城寺金堂(現在国宝)裏に覚円坊を開基されました。
覚円坊は当初、達藏坊と呼ばれ堀川院頼宗の力を得て建立されたと伝わります。達藏坊の名は達蔵院として伝わります。(堀川院頼宗は頼通の弟、堀河右大臣)
2、平等院の房舎
ときの天皇が平等院への行幸に際し、覚円の僧房を仮御所としたとの史料が残ります。
平等院には、覚円・四条宮寛子・藤原師実、それぞれに御堂が有ったとされますが、鳳凰堂を除く全てが焼失しています。
3、法勝寺の房舎
白河上皇はその院政を行うにあたり、覚円の僧房(房舎)を改め白河泉殿とし、院御所としました。後の改築により白河南殿と改め、更に白河北殿と共に、白河殿を院御所とし院政をおこないました。「国王の氏寺」と呼ばれる「法勝寺」を筆頭とする、いわゆる「六勝寺」は大地震や戦乱により、現存していません。
更に造園関係の研究者に有名なのが「石田殿」今鏡などにも記載されていますが、覺圓に譲られ、平等院の寺領となった
武州木曽における覚円坊
武州木曽に移された覚円坊について、史料は多く残っていません。
本山派修験の寺院として園城寺(三井寺)⇒ 聖護院 ⇒ 覚円坊 ⇒ 武州の末寺へ伝達する触頭であり、二十七先達の一寺とされています。現在の聖護院は本山修験宗の総本山として独立していますが、明治5年(1872年)の修験道廃止令発布の折には、覚円坊に対し真っ先に書状を送っています。覚円坊は聖護院末と称されることもありますが、それは本山派修験の寺院としてであり、根本道場である園城寺のもと聖護院を中心に組織されていました。園城寺の塔頭であった覚円坊は常に園城寺末でありました。共に園城寺末であった聖護院は藤原経輔の子増誉の開基(第7代門跡)、覚円の弟・藤原師実の子増智が第8代門跡を務めています。
宗派として、天台宗山門派・寺門派の天台宗寺門派、現在は天台寺門宗とされています。
各地に記された覚円坊
武田信玄判物:甲州山伏年行事補任約諾、差出人:武田信玄、宛所:覚円坊、日付は永禄12年(1569)8月19日(山梨県史 資料編4 中世1、甲府市武田家文書より引用)
栃木市都賀町原宿の玉塔院:都賀町史によると、正式名称は「医王山 玉塔院 神宮寺」と称し、真言宗豊山派の寺院です。玉塔院は、天正16年(1588)皆川氏の一族、吹上城主膝付信濃守の子、九郎左衛門の開基で吹上村野場新田に建立されましたが、慶長元年(1596)又は慶長17年(1612)覚円坊によって現在の地に移されました。(広報つが「歴史再発見」より引用)
白山神社(八王子)の再建:小田原征伐により1590年(天正18年)6月、焼失。1613年(慶長18年)覚円坊(木曽村、現町田市)の頼長権大僧都、伊藤九朗左衛門が大旦那となり再建される。(白山神社の伝承、Wikipediaより引用)
半沢覚円坊:福生市熊川には古刹・真言宗真福寺があります。同寺は近世初頭(17世紀)まで修験の半沢覚円坊(はんざわかくえんぼう)が、多摩一郡の修験の支配の拠点としていたところです。その権益は熊野参詣、伊勢参宮や西国巡礼の導師までも含む大きなものでした。この修験先達・半沢覚円坊も大量銭貨埋蔵者の可能性を秘めるものの一人として重要です。(福生市ホームページ:市のプロフィールより引用)
武蔵国半沢覚円坊について:本稿は、天正一八年(1590)六月の八王子城の落城で北条氏照と共に討ち死にした後、中絶していた半沢覚円坊を素材に、この修験寺院が元禄三年(1690)八月に再興されるまでの過程、および、延享三年(1747)三月までの霞下支配をめぐる事件を扱っている。(新城美恵子著『本山派修験と熊野先達』紹介文より引用)
・町田市図師町には半沢の地名が残ります。また、小山田城、八王子城に関する
史料には半沢坊の名がみられます。
・図師町の町名の由来には「承久年間(1219~1221)、時の領主の小山田二朗重義が
半沢山にある「白山社」を修理しようとして、別当の大蔵院長栄に社にある地形を
尋ねたところ、長栄は図を画き、重義がそれを誉め長栄を図師法印半沢坊と称し、
領地の一部を社領として寄贈し「図師領」と称したと伝わる」とあります。
(Wikipediaより引用、森山兼光 『町田郷土誌』 1996年6月(久美堂))
・「室町末期から熊野詣を組織して勢力をはった。福生半沢坊(福生市今熊)の修験を
触頭として、覚円坊は多西の各地の霞下を集合した。そして八王子城の合戦に人質を
取られ参戦して討死した先達もいた。」(「多摩のあゆみ」第27号より引用)
・熊野那智大社文書に「覚円坊(武蔵国榛沢)」の記述がみられます。
(榛沢は埼玉県深谷市近辺、町田市図師町にも榛沢はるなさわの地名が残ります)
日野倉沢地区の万蔵院_1:先祖が江戸時代初期の寛永年代に修験の道に入り、この地に京都聖護院流の本山派修験の道場(寺院)をつくり、木曽村(町田市)の住善寺覚円坊の末寺として江戸時代を通じて存続しました。明治の神仏分離に際に僧侶を辞めて神職の道を選び、万蔵院は廃絶し地名として残されたのです。残された文書に、延亨3年(1746)には木曽村覚円坊の横暴を多摩地区の修験11ヵ寺が本山の聖護院に訴えている興味深い文書もあります。(倉沢里山を愛する会会報 11号 2001年11月1日より引用)
比企西国三十三所 旧22番札所 羽尾寺:滑川町羽尾の羽尾寺のものと思われる石碑には
天明八戊申天 ※1788年
覺
三僧祇法印権大僧都文□
位
八月二十九日
多麻郡木曽
施主 覚圓坊住珎□□
(Yahooブログ「定年、これからの人生楽しみ探しの旅」より「比企西国三十三所探索52/53(第二十二番羽尾寺3)」手前から5基目(卵塔)刻まれている墓碑名・・・より引用)/現在はSeesaaブログ「散歩 山歩 餐歩 参歩」に移行しています
別当寺覚円坊:新編相模国風土記稿には覚円坊が淵野辺の山王社、御嶽社(皇武神社)、鹿嶋社の別当寺であると記されています。また矢部の箭幹八幡宮も別当寺が覚円坊と記しています。神仏習合が行われていた時代に神社を管理したお寺のことをいいます。
新編武蔵風土記稿:多磨郡之二 木曽郷 木曽村
小名 矢部 村の西北なり、この所矢部村と號して別に一村のことくなり
矢幹八幡社・・・別當覚圓坊 除地五畝十一歩、本村にあり、京都聖護院末本山修驗の觸頭なり、吉祥山住善寺遼藏院と號す、開山は傳燈阿闍梨明徳三年五月寂
觀音堂・・・これも境内にあり、三間半に五間、正觀音の本像を安す、長三尺はかり、この觀音免田三畝二十七歩あり(新編武蔵風土記稿より引用、遼藏院は達蔵院の誤り)
日野の万蔵院_2:安政2年(1855)10月24日木曽村(町田市)の本寺覚円坊からの回状にも百草万蔵院より平山徳蔵院まで順達とあって、このルートは幕末まで命脉を保っていたことがはっきりする。(広報ひの昭和57年8月1日号より引用)
本寺覚円坊の末寺:修験道廃止令をもって多くの修験寺が廃寺となりました。しかし、多摩地区のいくつかの寺は、その縁起の中で「本寺覚円坊の末寺(霞下・触下)であった」と記しています。
木曽で過ごした幼き日:お祭り・盆踊り・砂場・滑り台・ブランコ・移動図書館・紙芝居、それは「かんのんさま」
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©木曽観音堂 覚円坊(かくえんぼう)