覚円坊の歴史をたずねて  

 

          木曽観音堂・覚円坊(東京都町田市木曽)

 

聖護院門跡(京都市)

本山派修験は根本道場である園城寺のもと聖護院を中心に組織されていました。現在の聖護院は本山修験宗として独立していますが、本来は天台宗寺門派(天台寺門宗)の寺院です。

 

 

本山派修験の有力寺院は二十七先達と呼ばれていました。多くの寺院は廃絶していますが覚円坊は現存する五先達の一寺です。現在も園城寺を総本山とする、天台寺門宗の寺院です。

 

園城寺(滋賀県大津市)

           平成26年10月18日 ~ 平成26年11月24日

             本山参詣(木曽観音講) 

 

飯道(滋賀県甲賀市)  

古文書によれば「永治元年(1141年)延暦寺山徒の為、三井寺炎上のおり、法禪院大信房遁れて其本尊聖観音像を鈴鹿山北麓、飯道に移したが、其後210年後の南北朝争乱時代、即ち観応二年(1351年)僧義然、又近江国粟津中之里木曽義仲の墓地にある義仲庵に移して安置し」とあります。

また、源義仲の右筆として知られる覚明が、2歳であった駒王丸を飯道の達蔵坊(覚円坊)にかくまったとする史料がみられます。その後、義仲庵、武州木曽へとつなぐ縁となったのでしょう。

達蔵坊の名は、達蔵院覚円坊として伝えられています。

 

飯道山と重要文化財飯道神社本殿

飯道山は古くから神の宿る霊山として信仰されてきた山であった。奈良時代にはすでに神殿が建てられ、平安時代に入ると神仏習合(神仏両教がとけ合うこと)の飯道寺として大いに栄えた。山頂には三十六坊を数える多くの坊舎が建ち並び、この地方屈指の大霊山となったのである。
飯道神社はこの山の鎮守として山の頂上に位置し、久安二年(西暦1146年)には甲賀郡の総社ともなっている。明治維新の神仏分離によって寺院関係のものがとりはらわれたので今はこの社殿だけが残って往時の隆盛をしのばせてくれる。現在の本殿は江戸時代のごく初期、慶安三年(西暦1650年)に再建されたものであるがいわゆる桃山風の建築で、大そう変化に富んだ形に造られ、また建物全体が金箔・漆あるいは極彩色にいろどられてまことに絢爛豪華な建築であるということができる。昭和50年より3年をかけて総解体の大修理がなされ華麗な姿が再現した。(案内板より転載)

 

義仲寺(滋賀県大津市)

                      

 

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